加藤清正の墓は天澤寺(丸岡城跡)の敷地内にある

山形県東田川郡櫛引町丸岡地区にある曹洞宗天澤寺は、鎌倉時代から天正年間まで庄内に覇を唱えていた武藤氏の支城の在った場所にあります。
その武藤家は越後上杉氏に滅ぼされ、関ヶ原の戦い以後山形最上氏が豊臣方の上杉氏に代わり庄内を治める事になった。その間の1615年の江戸幕府の一国一城令により丸岡の城が取れ払われた。
やがて外様大名であった最上氏は家中のお家騒動を理由に改易され、1622年譜代大名の酒井氏が庄内に入部しました。

寛永8年(1633)外様大名の加藤清正の嫡子加藤忠広が熊本54万石をいわれなき理由で改易の憂き目にあい扶持1万石にて庄内酒井藩に預けとなった。その時庄内藩では丸岡の城跡に忠広と生母正応院の為の住居と御家来衆の長屋を新築し住まわせた。加藤忠広生存中は藩主もたびたび訪れ見舞ったと云います。


加藤忠広は庄内に配流が決まった折に幕府に知れぬよう加藤清正の遺骨を密かに熊本より持ち出し、母と共にその菩提を弔ったとされています。 

公けの墓所を清正閣と名づけ、本当の墓は忠広館の奥庭に埋葬し密かに隠匿していたと云い伝えられております。

天保3年(1646)の丸岡の大火で館と天澤寺が共に消失した折、清正の遺骨を天澤寺の世代墓地に一時埋葬し、後に五輪の塔を立てて供養しておりました。昭和24年に遺跡の発掘調査が行われ清正閣より鎧一領、五輪の塔からは九州肥前弓野焼きの骨壷が発見されました。

清  正  閣 忠広と家来衆の墓 丸岡城の堀跡
丸岡城大手門付近 稲 荷 神 社 古 井 戸 の 跡
所 在 地 山形県東田川郡櫛引町丸岡町の内36
電  話 0235(57)2252  天澤寺